研究テーマ選びと自分の興味
今日は本を読むより書きたい気持ちになったので筆を走らせようとおもったので走らせてみる。文字を書く勢いがある時は書くべし。
最近、友人たち(計3人)と月一で一人ずつで研究発表会をしている。
研究、とか言っているけど、大それたことをしているわけではない。
レベル的には大学のゼミ発表レベルだ。なんなら専門家もいないし全員が別分野に興味を持ってる。
1人は院生で言語教育(以下、院生くん)。もう1人は高卒(消防士)で経済学(消防くん)。そして自分は大卒で歴史学。
これだけみたらめちゃくちゃだが、院生くんと自分は大学ないし大学院でそれなりに「学問とはどういうものか」を学んでおり、各々の専門知識はなくとも学問的な指摘が多少はしあえるはず。そして消防くんは経済に興味があるらしく、お金をためて大学に行きたいと言っている程度には本気なので、どうせならお互い自分の勉強した興味のあるテーマについてアウトプットする機会を作ると皆自己研鑽につながるし興味を深められるよね!
という動機ではじめてみたのである。
もちろんテーマは自由である。言うまでもなく、初代ローマ皇帝アウグストゥスの熱烈な支持者である自分は迷わずローマで、時代を共和政末期から帝政初期に絞った。
さて、ここで頭をもたげる問題であり今回の記事の本題であるのが「研究テーマ選び」である。
大雑把な目標は「アウグストゥスの作り上げた統治理念の解明」なのであるが、彼の目指す統治の在り方を考えるうえで見逃せないであろうキーワードが多く浮かび上がってくる。
やれカエサルの神格化だ、血統だ、インぺリウムだ、アウグストゥス(称号)だ、クリエンテスだ、最高神祇官職だ、プリンケプスだ、そもそも帝政ってなんなんだ、法的権能がなんなのか、自身の業績録はどういう意義があるのか、宗教復興は何を意図しているのか、、、、建築活動の意義、、、地方都市との関係、、、植民市、、、、
アウグストゥスの信奉者になってはや8年(え、もう8年も経つの?やだーなにもわかってない)、アウグストゥスないしローマのことでここまで考え続けたことはない。
あ、ちゃんと仕事はしてるよ?
とにかく、キーワードが多い。まあそれは当然である。あれだけの大国を変えたのだから一つのキーワードで説明できない。できるわけがない。なんなら研究すればするほど言い表せないものになっていくに違いない。とかいったらE・H・カーに怒られそうだけど。
なんにせよ、過去との対話を続けることに意義があるわけでありまして。
その為にはやはり一つ自分の切り口を見つけねばならないのです。
なんとなく、ぼんやりと、自分が国制における統治構造とか権力基盤に興味があるんだろうな、特に内乱が激しい時期にどのようにして権力基盤を築いたのか、というのに興味があるな、という自覚はある。日本の戦国時代然り、ドイツの叙任権闘争しかり。
こんな感じで、自分の興味と重要そうなキーワードの切り口を照らし合わせて自分の芯となるテーマを磨いていくわけだが、、、
考えれば考えるほど全部重要で、でも全部網羅して体系的に整理して、、、とおうのはさすがに素人の仕事じゃない。当たれる史料資料に限界があるのだ。そもそもラテン語なんて死ぬほど気合い入れて一文節翻訳できるかどうかだ。
そんなこと考えていると、研究テーマと自分の興味を合わせずにもっと楽そうなテーマに走ってしまおうか。そもそも自分が興味あると思っている事に本当に興味があるのか。その要素を含む違うところにあるのではないか。そんなことまで考えたりするけど、あくまでこれは趣味だ。好きなことを考えたい。嫌いにならない限りは。
こんなことをやっていると、卒論を書き始めようとしていた頃を思い出した。
そう、同じような作業を当時もしているのだ。
ハインリヒ4世は、グレゴリウスは、王派諸侯は、反王派諸侯は、なにをしたかったのか。信望を失いつつあるハインリヒ4世を支えていたものはなんだったのか。それぞれの関係性はどう影響を及ぼしたのか。つなげて考えるべきか、分離させて解釈するべきか。
それでもなんとか落としどころを見つけて卒論を書ききって悪くはない評価はいただけた。
そう振り返ると、歴史学としてのローマ史に初めて触れていく過程でこの苦悩は健全な状況なのかな、とか思ったりする。
そして結局その答えを出すにはいっぱい先行研究に当たるしかないのも経験している。
なので、とりあえず本やら論文やら読んで、考えて、自分の興味を削り出すという事を進めていきたい。
サカナクションの新曲を聞いて考え始めたこと。
はじめまして。
自己紹介とかすべきなのかわからないけれど、今じゃないなと思うので自己紹介は割愛。興味がある人は今後の記事を見て筆者の人格を再構築してみてください。
サカナクションが好きで、最近新曲が出たという事で聴いています。
やはりサカナクションワールドがしっかり出てて、相変わらず最高だなサカナ!という気持ちで聴いてますね。最高だ。
と考えてたんだけど、感想に関して「サカナ最高だな」しか言ってないんですよね。
そう、感想を言語化できていないのではないのかと。
普段からどうだべか、と思って立ち返ってみる。
うーん、おいしいごはん、おいしいお酒、好みの絵画や彫刻、映画を見たときに感じるものって割と言語化、、、できているかどうかはわからないけど、「最高だ」の一言で終わったりはしてないんですよね。
深みやら情景やら質感やら雰囲気やらフェティシズムやらを感じてそれを言葉で多少なりとも語っている。そんな気がする。するだけ?
でも音楽って自分にとって一番長い時間触れているアートで、一番初めに触れたアートで。
幼少期からヴァイオリンを習い、両親も昔はアマチュアのオーケストラ団員で。なんなら妻もチェロ弾きで。
聴けばモーツァルトがよい、ベートーヴェンがよい、シベリウスがよい、ファリャがよい、そういう「よい」という感想を残すことはできる。
クラシックでライトモティーフを用いた楽曲ならばそのモティーフを元にコメントを残せるけど、それ以上いう事ができない。
ううーん、いいものだ、好みだ、と感じていることは確かなのに、分析ができぬ。自分自身の分析ができてないのか、曲をのモノの分析ができてないのかもわからぬ。ぐぬぬ。
そこでちょっと視点を変えてみたい。最近「センス」というものがなんなのか考えることがよくある。わりと漠然とした概念だ。
どう考えてるかは話がずれるので割愛するけど(また割愛か)、センスは「感じるもの」であるという結論が自分の中で出ている。今のところの最有力説。感じることができないとたぶんセンスがあるものを作れない。
じゃあセンスってなんなんだ?と考える。
そして思ったのは「それが持つニュアンスにいいと思うこと」ではないかと。
立ち返ってみる。音楽の感想をどうしたら言語化できるのか?
センスの事を考えながら音楽を聴く。
すると、音の動き、メロディーライン、間の取り方、強弱、声質、そういったものに「センス」を見つけはじめた。「いいとおもうけどよくわってないもの」に「センス」という名前がついた。
なにがどういい?と聞かれると、うーん、自分の感性的にその音楽に含まれているニュアンスがよく合う、という表現にしかならないんだけど。でもセンスを感じるものを語るのに必ずしも高説ぶって語る必要もないのだ。いいものはいい。センスはセンス。
でもこれで、ただ漠然とした「あ、いいな」というもののなかにある「センス」を拾い上げて「センスのあるもの」という名前でそれの持つニュアンスをコレクションしていく作業が可能になったわけだ。
だから、いいな、と感じたけど言語化できないものはもう一度聴いてみて、ちりばめられた「センス」を拾い上げていきたいなって思ってます。
以上!
サカナクション最高!