ハインリヒ4世と叙任権闘争と諸侯

2度目の更新。
さる1/25はドイツ中世史に名高い「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件が起こった日。
簡潔に言うと、(いわゆる)神聖ローマ帝国皇帝のハインリヒ4世教皇グレゴリウス7世に謝罪して破門を解いてもらった事件です。教皇が皇帝を上回るきっかけともいわれています。
当時高校世界史で教わった時には友人と「カノッサの凌辱wwww」なんてくだらない事を言ってましたけど、これが自分の卒論のテーマになるとは当時1ミリも思ってませんでした。当時は日本史にしか興味がなかった。。。。なんでそんな奴がドイツ中世史をやったのかはまたいずれ。

本題へ。
”皇帝が教皇に謝罪した”という構図ばかりが強調されてしまっていて実際はどういう流れで謝罪したのか?本当に教皇権力は皇帝を上回っていたのか?ドイツ諸侯は何をしていたの?てゆーか何が問題なの?というところを整理したいなと思って、筆をツイッターで走らせてみました。ハインリヒ4世の名誉とかにもかけて。ただの謝罪マンじゃないということをしってほしくて!
それに、この一件は叙任権闘争だけが絡んだ問題ではない!という視点を提供したいという目的もありまする。
ただツイートしてみたものの、ツイート数は25を超え文字数にして3500文字程度まで膨れ上がったので「これ誰も読まねーんじゃねーの、、、」と思い。ブログにそのコピペ記事を作ろうと決心。
そんなわけで、以下。1/27の自ツイートをまとめたものでございます。少し修正したけど



さて、「カノッサ行」への流れはどうしても叙任権闘争にまつわる問題で教皇と皇帝の関係が破綻して破門からの謝罪、と思われがちだけど、ここで「破門解除の為の教皇への謝罪」という一見皇帝の教皇に対する敗北のように見える行動に出たのにはドイツ圏内の情勢を解決したかったからなんじゃ。つまり少なくとも皇帝は教皇に屈したわけではない。
謝罪後に軍勢を率いて教皇をローマから追い出してるからそりゃそうだ、と思うかもしれないけど、細かいプロセスを知るとまた見方は変わる

先帝ハインリヒ3世は即位時点で3つの大公を手中に収めてたのを諸侯に任じて大公の官職化を図る、つまり大公職を伝統的な「部族大公」から引き離したり、教会の問題に介入したりと、中世盛期あたりまでの皇帝のなかでも特に内政面はトップレベルの安定性を保っていた

神聖ローマ関係の書籍をいくつか出してる菊池良生も「中世盛期最強」って言ってた(気がした) (菊池センセの評価は割れるかもだけど)
まあ当然他の大公はじめ諸侯からは反感を買って蜂起されたんだけど無事鎮圧。反乱起こしたロートリンゲン大公領そのものを分割するとか何事やねんという 
ほぼほぼ快調な滑り出しを迎えたにもかかわらず、死ぬ
38歳で死ぬ。おまえ、これからやろ!というところである。有能ハインリヒ3世なので既に息子をローマ王にしていたので、とりあえず円滑にドイツ王即位。順調に統治!かに見えた。

ハインリヒ4世、4ちゃい。何がどうこうできるわけでもなく、摂政である母アグネスに全権委任する形に。このママ、結構押しに弱いタイプのようで。それまで抑圧されていた諸侯たちはこれ見よがしに暴れます。具体的には王領を勝手に奪ったりハインリヒを拉致したりします。あぁ、3世が生きていたらなぁ

土地も権威も削られるドイツ王。ハインリヒくんの性格も歪んでいきます(たぶん。歪まないほうがおかしい) 
そんなこんなでなんとか元服したハインリヒ4世。親政開始直後に早速反乱につぐ反乱。しかし鋼メンタルを手に入れたハインリヒ4世はパパ同様、王権の回復と強化に勤しんでいきます。がんばれ!

その過程でいわゆるザクセン戦争が起こります。摂政期に奪われたザクセンの王領を奪還しようとしたハインリヒ4世は元王領地に勝手に城建てたりザクセン外から連れてきた農民を入植させたりしました。明らかに喧嘩売ってる。いや、元は自分の土地だけどさ
、、、まあその土地もパパがザクセン諸侯から奪った土地なんだけどね

そんなハインリヒ4世のやり方にキレたザクセン貴族層はハインリヒ4世を包囲。この時戦いの準備をしていなかったハインリヒ。劣勢に立つもなんとか一旦和睦。

ハインリヒ4世は和睦条件である王の城の一部破却は行ったものの、別の城を建てるというクソムーブをします。キレたザクセン諸侯はハインリヒ4世の兄弟と夭逝した息子コンラートの墓ごと城を破壊しました。
うわー!墓を破壊!!!!!寒いダジャレな上に神聖なる王家の墓を暴くなんて許さないよね?!みんなこれおかしくね?!みんなでザクセン殴ろうぜ!って言ったかどうかはわかんないけど、大体そんな内容でザクセン諸侯を批判して味方を募ります。
おまえこれを狙ってただろ(個人の意見です

そんなこんなでザクセン公より多くの軍勢を集めたハインリヒくんは農民を中心とするザクセン軍に勝利。無事に王領地を正式に取り戻します。これが1073年のこと。 こんなことやってるので諸侯のヘイトは溜まります。足利義教みたいに恐怖に陥れられればよかったんだろうけど、普通にヘイトですよねこれ

そんな展開のなか、教会の腐敗に対する改革が教皇グレゴリウス7世の下に進められていました。
俗世の利益に目を眩ませた聖職者を追放しようというやつで、俗に言うクリュニー修道院改革。具体的には、聖職売買や妻帯者を追放しようぜ、というやつです。この動き、ハインリヒ3世期から存在しており、彼もまたその動きに賛同していました。
というのも、ドイツ各地にある司教領を治めるドイツの聖界諸侯たちは皇帝による叙任であったため、一般的な俗界諸侯に対する楔として機能していた(いわゆる帝国教会政策)ので、教会の腐敗をなくす事で統治にも利益があったわけです。生臭坊主どもめ!

しかしグレゴリウス7世が教皇に就任。クリュニー修道院改革を強化する形でグレゴリウス7世なりの全体的な教会改革を行います。ここでこんな事を言い出します。「教会法的にはやっぱ王/皇帝が叙任すんのおかしくね?」と。当然ドイツ王というかドイツだけでなく全国的に王とぶつかります。

まあグレゴリウス的には俗界に取り込まれつつある教会を解放したいというのが柱なので(諸説あり)ので、ドイツ以外の王権ともぶつかるんだけど、グレゴがそれなりに折り合いをつけてくれたり、その王国の状況とかも考慮したりしてたのでそこまで大ごとにならずだったよう。
でもこのグレゴリウス7世が出した、改革の要綱ともいえる「教皇令書」、割と過激。
教皇の行為の正当化とか、俗人君主に対する優越とか宣誓の解除権とか破門された時の具体的な法的制限とか。全27か条。人によってはこいつを「教皇至上権規定」って呼ぶ研究者もいる。そんくらいすごい
全文については「dictatus papae」でググると出るよ。原文(ラテン語)か英訳くらいだけど。(全部日本語に訳されてるのが載ってる本もあるよ
↑英語全訳版が書いてある

これが出されたのが1075年。カノッサ事件の2年前である

んまあ俗人君主に叙任された司教は認めねーからって言われたのでドイツの司教たちも溜まったもんじゃない。 ハインリヒはその問題について帝国議会を招集。そこでなんと逆にグレゴリウス7世の廃位を決議。やりますねぇ!って感じなんだけど、集まったのはほとんど聖界諸侯で大公は一人しか来なかった
だいぶ嫌われてんなハインリヒ、という感じではあるけど決議は決議。しかし破門の使い手であるグレゴリウス7世は破門カッターでハインリヒ4世以下ハインリヒに同調したドイツ・北イタリアの司教たちを破門!さらに諸侯のハインリヒ4世への臣従を解除します

でもこの時点でハインリヒ4世は破門された事に関してあわてないどころか抗議文を送り返します。この辺りからわかるように、教皇令書自体あまり効力の強いものではなかった、すなわち一般諸侯はそこまで認めていなかった
たぶん教皇もそれはわかっていて、あくまで教皇に従わせるというよりただお前らの手のひらの上にはいないぞというアピールであろうというのが所感 ハインリヒ3世の頃には教会は介入されまくったからね、、、

二人が言い合いしてる間に、諸侯たちにも少しずつ動きが見え始めてくる。反王派諸侯はこれに乗じて諸侯は再び議会を開き王の進退について結論を出す。その結果「半年以内に破門解除がないと新しい王を立てます!」との結論が。結構荒れたらしい。王は近くまで来たけど参加させてもらえなかったとか

半年待ってくれるの!反王派多いのにやさしい!って感じだけど、それは教皇が諸侯に「恭順するなら優しくしてあげて」という口添えのおかげ。グレゴリウスくん、一瞬厳しいけど実はやさしいタイプだよね(個人の感想

そんなわけでやっとこさここでハインリヒと諸侯の対立とハインリヒと教皇の対立が繋がったわけで、叙任権闘争の図式としてはハインリヒ対教皇&諸侯という一図式に落とし込むのは違うのじゃ(持論 あくまで教皇からの圧力を諸侯が利用したという形で、でもそれは教皇の意図にはそぐわないという
実際、教皇と諸侯は足並みも揃ってないんだよね。 恭順の意を示したら許せという教皇の指示があったにもかかわらず、謝罪の後、諸侯は対立王を立てて闘争を継続してる。
でも対立王のルドルフフォンラインフェルデンくんの方がハインリヒより性格よさそう(イメージ
ルターの農民戦争も似たような感じのイメージ。聖職者の行動がきっかけだけどそれを元に暴れた一般人たちはその聖職者に梯子を外されるという

話を戻す ハインリヒ4世はとりあえず破門解除してもらわなきゃ何もできんという事で何はともあれ謝罪に向かいました。1077125日、カノッサ城にて謝罪を始めました。3日間も!寒い!(本当にしたかどうかは謎

そんな彼の姿を見たグレゴリウス7世は破門を解除。わりとあっさり。教皇にとってはこの姿を見て一安心というか、彼にとってはひとまずゴールだったのです
晴れて王としての正当性を回復したハインリヒは対立王に戦いで負けてもう一度グレゴリウスに破門された(!)あと、戦いの傷が元で対立王が死んだのでこれはチャンスといわんばかりにまたグレゴリウスを廃位してグレゴリウスをローマから追い落として死なせます。いえーい!

ちなみに神聖ローマ皇帝はドイツ諸侯の承認でドイツ王就任→教皇による神聖ローマ皇帝戴冠 という流れで皇帝になるんだけど、こんな事件があったので2度目の破門の時に対立教皇を立てて戴冠してもらうまでは実質皇帝ではなく王という肩書だったよ。

というのがカノッサ事件の顛末。 
なりふりかまわず、でも付け入る隙を与えずに確実に危機回避してから十分に準備を整えて敵を殺しにかかるというムーヴのハインリヒ4世!そしてヘイトは溜まる!ゲスムーブを繰り返して切り抜けるハインリヒ4世に興奮するし、晩年には二人の息子にも裏切られるという展開もポイント高いよね、、、フフ

まとめると、ハインリヒ4世が謝罪したのはドイツ王位を保持するためであって教皇にひれ伏すつもりはなくなんならドイツ諸侯を抑えつけるのが目的であるし、グレゴリウスもドイツの情勢を荒らすつもりはなかった、、、というのがカノッサ事件にまつわる一連の流れ。また、カノッサでの謝罪は叙任権をめぐる争いの上での「皇帝の教皇への屈伏」ではないのであります。わかりにくかったら指摘くださいな


ハインリヒ4世にまつわる研究者に井上雅夫先生がいらっしゃるので、気になった方は先生の著作をおススメします。
でも一昨年くらいに引退なさったので今後のカノッサ事件とハインリヒ4世の研究は誰がリードしてくんやろ。。。